チャレンジは、まだ終わらない

 

株式会社アットオフィスコンサルティング 代表取締役社長
谷 正男氏

プロフィール>
1964年生まれ 41歳
東京都出身 趣味(読書・スポーツ)
大手オフィス仲介会社で約10年間勤務(西日本営業統括部長、取締役)。2005年1月、「株式会社アットオフィスコンサルティング」を創業。代表取締役社長を務める。


「明朗会計」「多様なサービス」を誇る、次世代型の会計事務所

 谷正男氏は、AOC(アットオフィスコンサルティング)の代表取締役社長。約15年間をオフィスビル仲介業に費やした谷氏は、自らの経験から、中小ビルオーナー・中小企業に特化した不動産業の必要性を実感。自ら新しい会計事務所を立ち上げるに至った。それがAOCである。

 AOCは、不動産仲介業者ででありながら、会計事務所、WEB制作、テレマーケティングまでもサポートする多機能な会社。計画的な資産管理・運用を行わず、空室ができてもあまり営業活動をしない中小ビルオーナーを目にしてきた谷氏が、中小ビルオーナーや、そこにテナントとして入居する中小企業のために創業したのが始まりだ。

「バブルの崩壊以来、中小ビルオーナーの皆さんが経営にご苦労されているのを目の当たりにしてきました。そこで、『自分に何かできることはないだろうか』と考えた結果がAOCだったのです。明確な会計処理で資産を有効に運用すると共に、様々な方法で営業活動をサポートする。それが中小ビルオーナーの皆様や、そこにテナントとして入居される中小企業の皆様に必要なサービスだと確信しました」

 確かに会計処理というのは、きちんとやろうとすればするほど、素人が手を出しにくい分野。そして会計事務所の業務も、理解できず、場合によっては不透明な印象を持ってしまいがちだ。そこに、明確な料金表を提示して、しかも様々なオプションサービスを提示されれば、便利なことは間違いない。

長島にあこがれ、プロ野球選手を目指した少年時代

 AOC(アットオフィスコンサルティング)を立ち上げた谷氏の風貌は、人に理知的な印象を与える。AOCの設立を企図したところからも、そんな印象が喚起されるのは当然のことだろう。
 しかし実際にお話しさせていただくと、決して理知的なだけの方ではないことがわかる。週に最低1度はジムに通い、体を動かすアクティブな1面も持ち合わせているのだ。

「小さい頃は巨人の長島選手にあこがれて、野球に熱中していました。小学生から始めて中学、高校とずっと野球を続けました。将来はプロ野球選手になろうと決めていました」


 4人兄弟だった谷少年の家庭は、決して裕福ではなかった。その経済状況を考えて、高校は都立へ進んだ。本来なら野球の強い私立に行くのが、プロを目指す谷少年にとっては最上の進路だっただろう。しかし、親の苦労する姿を見ながら、そんなことは言えなかった。
 1980年(昭和55年)、都立の中では野球の強い千歳高校に入学。たとえ都立高校に入学しても、野球に対する情熱は変わらなかった。入学時の自己紹介でも、「僕は野球をするためにこの学校にきました」と風変わりなあいさつをして注目を集める。子供の頃からガキ大将としてならした谷少年は、高校でもその頭角を表し、リーダー的な存在となった。
 部活動は当然、野球部。
「甲子園に行ってやる!」
本気でそう考えて野球に打ち込んだ。しかし、練習時間を始めとするあらゆる制限がある環境の中で、いつしか限界を感じ始める。そして部活動を引退してからは、アルバイトにも時間を割くようになった。それが、谷少年の高校卒業後の進路に多大な影響を与えるようになる。

「衣・食・住」に関わる仕事を志望し、料理の世界へ

 部活を引退した高校3年生の夏。谷青年はスナックでアルバイトを始めた。といっても、酒を飲んで客の相手をするわけではない。厨房にいて、料理を作る仕事だった。
「アルバイトを始めたのは車の免許を取るために教習所に通いたかったからでした。スナックという所に抵抗もありましたが、お金が貯まればやめるつもりだったので、まあいいか、と。料理を作るのは、苦ではありませんでした。ウチは元々片親なので、働きに出ている親に代わって、自分の食べ物ぐらいは自分で作っていましたから。むしろ、料理は好きでしたね。スナックという、高校生としては馴染みのない環境で驚くことも多く、楽しく働けました」

 必要な金額を稼ぎ出した谷青年は、スナックでのアルバイトをやめ、普通の高校生に戻った。しかし以前のように、プロの選手になろうという意識はなかった。
 高校3年生の秋、卒業後の進路を明確に決める時期が来た。谷青年には、漠然とはしながらも、確固とした進路への希望があった。

「仕事をするのなら、人間に必要と言われる『衣・食・住』に関わる仕事がしたいと考えていました。しかし、中でも『衣』、つまりファッションは、あまり興味を持てない分野でした。だから結果としては『食・住』に絞られたんです。そこで影響を受けたのがスナックでのアルバイト経験。楽しくやりがいもあったので、『卒業したら料理人になろう!』と思い定めました」

 谷青年は公共施設内のレストランに勤める先輩を頼って就職活動を行い、同店に勤めることになった。

「食」の仕事を渡る日々@

 高校卒業後、公共施設内のレストランに勤務した谷青年。洋食を中心に多様なメニューがあるその店で、料理人としての修行が始まった。
 料理人は、いわば職人。上下関係がはっきりとしたタテ社会で、新人に対する教育は厳しく、激しい。右も左もわからない小間使いの段階から、谷青年も厳しく激しい教育を受けた。

「もう、殴る蹴るなんて当たり前ですからね。その上、何にも教えてくれないんですよ、昔は。いじめられながら、見て盗むしかない。私は負けず嫌いな所があるので、ただいじめられて何も得ずにやめるなんて考えられませんでした。『とにかく腕を磨いて、こいつらを見返してやる』。そんな風に思って頑張っていました」

タテ社会の掟は、野球部時代から身に染みていた。動じることなく職場の雰囲気に溶け込み、積極的に先輩達の技を盗んでいった。元から料理が好きだったこともあり、急速に知識と技術を身につけていった谷青年は、入社後わずか半年ほどで、次第に調理を任されるようになっていった。

「自分たちと同じ立場になってくると、先輩達も自分を認めてくれて、親しく接してくれるようになる。そうなったら勝ちです。働きやすくなって、すごく良い職場環境になりました」

 働きやすくなった職場で、特別に仲の良い先輩もでき、充実した毎日を送る谷青年。しかし、働き始めて約2年後に、最初の転機が訪れた。

「仲の良かった先輩が、今の店を辞めてチェーン展開する有名ホテルの厨房に移るというんです。それで、一緒に行かないか、と」

 20歳を迎えた谷青年は、「この先輩となら、新しいお店でも楽しく働けるだろう」と転職を決めた。新たな職場で自分を試したい、新しい知識・技術・経験を手に入れたいという欲求もあった。そして彼は、初めて勤めた店に別れを告げた。

「食」の仕事を渡る日々A

 新たなお店は、ホテルの厨房。以前勤めていたレストランも収容客数の多い店だったが、宿泊客が多く、披露宴なども行われるホテルでは、客数の単位が桁違いに多い。処理する食材の量、作る料理の数は、圧倒的に増えた。

「料理人を始める時には、ホテルの厨房などで働くのがいいと言われています。それは、扱う食材の量や料理の数が半端じゃないから。例えばジャガイモの皮をむくという作業を任されたら、それこそ一日中、皮をむき続けることになります。だから、包丁の扱い方、ひとつひとつの食材の扱い方などに、嫌でも熟練して行くことになるのです」

 そんな環境の中で、谷氏はますます技術に磨きをかける。しかし、その新たな挑戦はわずか3ヶ月で終わってしまった。

「一緒に入社した先輩が、厨房でケンカをしてしまい、辞めてしまったんです。それで、誘われて入った私も居づらくなり、辞めました。まあ、そんなに深刻には考えなかったですけどね。『じゃあ辞めるか』という感じで…」

 ホテルの厨房を辞めた後は、友達に誘われるままに六本木でホストまがいのアルバイトをしたが、それも3ヶ月ほどで辞めてしまう。その後、約半年は何をするということもなく、無職で過ごした。六本木のアルバイトで得た収入を糧に、谷氏は20歳の空白をしばし味わった。
「そろそろ働かなきゃマズイかな…」と思い出した頃、知り合いから「調理ができる人間を探している店があるんだけど、どうかな?」という誘いがあった。谷氏にとっては渡りに船である。すぐにその誘いに乗り、勤めることになった。

 新しい店は銀座のクラブだった。基本的には厨房で働くが、人手が足りない時には、ボーイとしてフロアに出ることもあった。

「当時は、バブル時代の初期。羽振りの良いお客さんがたくさんいて、銀座はとてもにぎやかでした。夕方になるとホステスさんがいっせいに出勤してくるので、街の匂いが本当に変わるんです」

高級クラブでは、今のキャバクラなどと違い、まともな料理を出す。特に盛り付けに凝って料理を出すのがクラブの特徴だった。その意味でも、腕の良い料理人は必要だった。その店で谷氏は、存分に腕を揮った。

 高校時代にもスナックでアルバイトをしたが、銀座のクラブはやはり別世界だった。働く女性のレベル、お客さんのレベル、使われる金額…。そのすべてが、谷氏にとっては新たな経験だった。
 料理人としても、これまでの大きな厨房とは違う経験を積んだ。料理自体よりも、美しい盛り付けに手がかかる料理。今までにはないニーズに、谷氏のチャレンジ精神に火がついた。
 ボーイとして働くことも、谷氏にとっては興味深い経験だった。それまでは厨房にこもることが多く、お客さんと接することの少なかった谷氏は、改めて接客の楽しさを知り、学んだ。この経験は、後の不動産業でも大いに役立つことになる。

「食」の仕事を渡る日々B

 銀座のクラブでは、約1年半の歳月を過ごした。この歳月の中で、谷氏が学んだものは多い。料理に対する見方。接客という仕事に対する見方。そして、お客さんとの対話の中からわかった、企業・社会・仕事、そして人。
 自分に新たな知識・経験が蓄積されていく中で、谷氏の心には独立心が芽生えていった。

「高校性の頃から『いつか自分で起業したい』という考えは持っていました。その気持がこの頃、現実的になってきたんです」

 その気持に従い、谷氏は自分の店を持つことを決心する。銀座のクラブを辞め、信頼できる友人と共にレストランを開店した。
「レストラン エピナール」
それが、府中市にオープンした谷氏の店の名だ。洋食をメインに、“味”で勝負するのが、エピナールのコンセプトだった。最初こそ客の誘致に苦労したものの、しだいに固定客がつき始めると、経営は軌道に乗った。

 その頃、巷で流行り始めたものがある。“カラオケ”だ。エピナールの経営は、このカラオケの登場によって大きく変化することになる。

「あの当時は、とにかくカラオケがすごく流行り始めた時期でした。それで、来るお客さん達に『カラオケ入れないの?』といつも言われる状態で…」

 共同経営者の友人と話し合った結果、エピナールにもカラオケが導入されることになった。売上を重視した、「経営者」としての決断である。
 売上げは上がった。お客さんにも喜んでもらえた。しかし、フラストレーションが次第につのり始める。
自分の料理を前に歌に興じるお客さんを見て、谷氏は思う。

「確かにおいしいといってはくれるが、果たして料理を食べる事と歌うことのどちらを楽しんでいるのだろうか?」

 その考えは次第にふくらみ、谷氏の心を圧迫していく。そして開店から約2年。谷氏は店を共同経営者に委ね、新たに自分の道を切り開く決意をした。

「食に関する仕事という意味では、自分の店を出したということで、一区切りがついたという感じでした。次にやるなら、まったく新しいことをやろうと考えました」

 谷氏が「食」の次に目を向けた仕事は、高校時代からの考えどおり「住」。不動産業だった。

テナント仲介業、トップセールスマンへの道

 不動産業への転向を決意して、谷氏が入社したのは、テナントビル仲介業社。谷氏、23歳の時だった。
 入社してまず気になったのは、「トップセールスマンは誰か」ということ。実際に谷氏は、入社してすぐにそれを確認し、何日か行動を共にして、トップセールスマンの営業方法を観察した。その結果、得たのは「これなら抜けるな」という確信だった。

「接客のノウハウは、クラブのボーイ時代に培われていたし、自分のお店を流行らせるためにも、営業的な感覚は必要でした。その経験が土台となっていたので『自分ならこの仕事をもっとうまくこなせる』と感じられたのです」

 不動産知識を吸収しながら次第に成績を伸ばし、入社後約半年で、とうとう月間成績トップの座を手にすることになる。不動産業では、成績の集計は月ごとに行われる。一人一人の成績の推移が浮き彫りにされるため、シビアな反面、自分自身に対する評価もしやすい。谷氏も毎月の自分の成績を指標にして、成長を続けた。自らの成績を上げることに異常な情熱を燃やした時期だった。

 その後も、谷氏は何度も月間売上げで最上位にランキングされるようになっていった。そして収入も増えた。契約ごとに歩合がつくために、成績が上がれば上がるほど高額になり、飲食業の時とは比べ物にならないほどの額になっていく。相応の蓄えもできた谷氏は、高校時代から交際していた奥様との結婚を決意した。それが、26歳の時である。

 結婚してから、谷氏の仕事に対する観念が微妙に変化してきた。より高い成績を上げるための成果主義から、よりお客さんに満足してもらうための目的主義に変わった。

「もちろんそれまでも、お客様の満足を考えていました。しかし、自分がより高い目標を達成するための方法論でしかなかったんです。しかし、結婚して家族を持つことにより、考えが変わりました。成果を上げる事よりも、よりお客様のために親身になること。その大切さがわかったんです。チープな言い方ですが、『お金=幸せ』じゃないということですね。思えば、料理も同じことです。自分のためではなく、相手の幸せのために行動する。それこそがあらゆる仕事に共通する最良のロジックなんです。家族の幸せを考える立場になって、改めてそのことに気がつきました」


自らの理想から逸脱した会社との別離

 結婚後、気持ちのあり方が変わった谷氏だったが、営業の好成績は相変わらず続いた。数年のうちに社長賞4回をはじめとする各種の賞をもらうほどの成績を、その後数年にわたって維持することになる。
 好成績を上げ続けている間、谷氏は同僚やOLへの感謝やケアも忘れなかった。

「自分が好成績を上げるためには、事務仕事をこなしてくれる社員や、サポートをしてくれる他の営業マンの力が不可欠だということを、忘れたことはありませんでした。だから、自腹を切ってみんなを連れて飲みに行ったりして、みんなに感謝の気持ちを表し、少しでも利益を還元するようにしていました」

 もともと親分肌の谷氏は、自分さえ良ければいいとは考えられなかったのだ。
同僚やOLに感謝の気持ちを表すことが、さらにみんなの協力を呼び、谷氏の好成績は持続される。好成績を上げ続ければ、会社からの評価は高くなる。そして当然のごとく役職につき、順調に昇格していった。そして30歳の頃には、執行役員にまで登りつめていた。
 役員になると、ポジションは経営者に近いものになる。そのポジションから会社を見るようになって、谷氏は自らの会社に不満を持ち始める。

「何が不満だったのかというと、社員に対する利益の還元についてです。私の目から見て、それが充分だとは思えませんでした。現場のみんなが頑張って利益を上げているんだから、できる限り還元するのが当然。それがなければ、何のために仕事をしているのか、と思いました。それは、自分自身にも当てはまる疑問でした。

『自分は何のために仕事をしているのか。自分は会社のためだけに仕事をしているのか』

もちろん、答えはNOです。仕事は、会社のためと同時に、自分のためにするもの。会社の利益と同時に、個人の利益や幸福も尊重されるべきです。しかし、そんな理想的な会社を実現するためには、やはり自分が経営者にならなければならない。そこで私は、独立を考えました」

 そんな時、志を同じくしたのが、後にグラントコーポレーションを共に立ち上げることになる廣瀬正一氏。
 はじめて会った時から共感を覚えた両者は、お互いの理想とする企業のあり方、不動産業のスタイルについてたびたび話し合い、理解を深め合った。そして、お互いが理想とする仲介会社を、共に設立することを約束する。
 それぞれが設立に向けて準備を始める。もちろん、その時に自分がやるべき仕事をキッチリとこなしながらなので、スピーディにとはいかなかったが、その足取りは着実だった。

 そして1998年。谷氏34歳の時に、独立への機は熟した。

瞬く間に発展を遂げたグラントコーポレーション

グラントコーポレーションを立ち上げたのは、1998年9月。最初は世田谷区の小さなオフィスでの開業だった。明大前の駅に近いビルに一室を借り、挑戦が始まった。すでに地位を確立している仲介業のビッグネームに追いつき、追いこす。その信念に燃えて、代表取締役の廣瀬正一氏と共に、ついに行動を起こしたのである。

 立ち上げ当時の忙しさは、「筆舌に尽くしがたい」と谷氏は言う。何から何までを二人で行い、寝る間も惜しんで働いた。その結果、翌年の1999年9月には、日本橋により規模の大きなオフィスを構えるに至った。この間の成長は非常に目覚ましいものであった。
 さらに翌2000年7月、本社を渋谷駅の近くに移転する。人員の増員に合わせたオフィス移転で、着実に都心に移動を続けていることに注目したい。成長に伴い、活動拠点を都心に向けて移動し続けることで、さらなる成長の土台を確実に築き上げていく。この手法によって、グラントコーポレーションは業界大手に続く規模にまで拡大したのである。
 渋谷にオフィスを構えた翌月には、ジーシーメディアという関連会社も設立している。ジーシーメディアは、販促ツールの企画・制作を行う会社。不動産業とは切っても切り離せないアイテムの企画・制作までをグループ内で行えるようにすることで、より質の高いサービスをクライアントに提供できるようになった。

 また、1999年の日本橋移転時に設立されたコールセンターは、その後も稼働を続けてグラントコーポレーションの発展を助けた。コールセンターを設けた理由は、営業マンの補助的役割を担うため。常に活動している営業マンに変わって、既存の顧客の問い合わせに対応したり、新規の問い合わせに対応してビジネスチャンスを創り出すなどの機能を果たしている。
最初は、立ち上げ当時に使用したオフィスをコールセンターとして使用。人数も限られていた。しかし、取り扱い件数の増大と共にコールセンターの人員も増員。今では、世田谷区池尻に、40〜50名のオーペレーターが常駐する大規模なコールセンターを運営するに至っている。
 このコールセンターには、独自のシステム「CTI」も採用。蓄積されたデータから優良顧客を選び出して自動的に電話をかけるシステムで、ロスの少ない営業を可能にしている。

 さらに2003年。事業が順調に拡大し続けるグラントコーポレーションは、本社を青山に移転する。不動産業で本社を青山に置くというケースは、前例を見ない。その姿勢は、新たな取り組みに燃えるグラントコーポレーションのポリシーを如実に示しているのかもしれない。

さらなる理想を叶えるために

「『GRANT』という言葉には、『承諾する』『授与する』『譲渡する』という意味があります。お客様に対しては、お望みの物件をご提供できるようにという意味を込めて、この名前を選びました。また、社員に対しても、考えや行動を認めた上でその働きに応じて利益を還元するので、この会社をひとりひとりが持つ夢を叶えるための礎としてほしい、という思いをこめています」

 一見しただけでは勇壮な感さえ与える「GRANT」という語に、これほどの思いやりのある意味が隠されているのには驚かされる。そしてグラントコーポレーションは、その名に恥じぬ業務を行い、発展を遂げてきた。しかし谷氏には、さらなる目標があるという。

「これまでテナントビルの仲介業を続けて来た中で、自分たちの理想に近い形で業務を遂行してきたという自負はあります。しかし反面で、いくつかの課題も新たに発見しました。今後はその課題を改善するために、新たなチャレンジをしていきます」

 谷氏がいう新たなチャレンジが、冒頭でも紹介したAOC(AT OFFICE CONSULTING/アットオフィスコンサルティング)だ。ビル仲介業を続ける中で、谷氏はいくつかの疑問点を持った。その中でも、最大の疑問が2つある。

●ビルオーナーは、なぜ自分で営業をしないのか?
●ビルオーナーは、なぜ自分で経理業務をしないのか?

 ビルオーナーは、自らのビルにテナントを誘致するのに、自分では何もしない。それで儲かっているのならまだわかるが、空室がなかなか埋まらないビルオーナーについても同様で、埋まるか埋まらないかは仲介業者、不動産業者に任せきり。自分の生活が苦しくなっても嘆くばかりで、やはり自分ではアクションを起こさない。
 経理業務についても同じで、毎月の決算を見直して経営戦略を立てるという、どんなに小さな会社でも当たり前のようにやっていることをしない。会計事務所に委託している場合も任せきりで、自分のお金の流れを把握していない。自分が任せている会計士が、実際にはどのように業務を行っているのか、適切な業務を行っているのかに興味を持っていない。資金運用や相続税まで含んだ節税対策を何もしていない。

 以上のことは大まかな内容で、谷氏の頭の中にはより具体的な疑問が渦を巻いていると思ってもらいたい。これらの疑問を解決してビルオーナーの経営を助け、さらにはテナントとして入居する中小企業にも利益をもたらすべく考えられたのがAOCなのである。

AOC(アットオフィスコンサルティング)とはどのような会社か

AOC(アットオフィスコンサルティング)の業務は多岐に及ぶ。不動産仲介業、会計業務と共に、WEBの制作、テレマーケティング、競合調査、ポスティング、営業代行、DM、FAX―DMなどが、AOCのサービス内容になる。通常なら企業が人材を投入して行うこれらの業務を、アウトソーシングとして請け負うのが特長である。利用者はこれらのサービスを活用しながら、自分の会社の営業に役立てることができるというわけだ。アットオフィスコンサルティングが特に力を入れているのは、WEBの活用で、訴求力のあるホームページの作成やWEB上での配信サービスなどには、目を見張るものがある。ここで、個々のサービスについて見てみよう。

AOCの事業領域
■不動産… オフィス移転、レイアウト、引越し、原状回復、什器備品
■会計… 月次決算、税務申告、収支計画、事業計画、節税、融資相談、リース提案
■WEB制作… HPの制作、運営管理(情報更新等)、サーバレンタル、ドメイン取得代行
■営業… テレマーケティング、競合調査、飛び込み、ポスティング、営業代行、DM、FAX―DM、会社案内、名刺、業務説明ツール、ノベルティグッズ、ポスター

「不動産」は、得意分野の最たるもの。ビルオーナーには適切なテナント探しのノウハウを与え、時にはニーズにマッチした企業を紹介する。移転を考える企業には、やはりニーズにマッチしたオフィスビルをスピーディに紹介する。しかも、引越しや原状回復に関するサービスまでも提供可能である。
「会計」は会計事務所が提供するのと同様、月次決算や税金申請などの会計処理業務を行う。しかも、ビルオーナー、中小企業などに特化したアドバイスやサポートも受けられる。
 「WEB制作」はそのまま、ホームページの制作。今や営業ツールとしては欠かせないホームページを一から制作し、運営・管理まで行うので、高齢のビルオーナーでも気軽に利用できる。
「営業」については、文字通り営業をサポートする様々なサービスが提供される。もっとも特徴的なのは独自のテレマーケティングセンターとシステムを持つグラント・グループの強みを活かした「テレマーケティング」。その他にも業務用ツールや会社案内、ポスター、ノベルティグッズなどの製作に加え、名刺の作成までも含まれている。

 ここまでに挙げてきたサービスは、それぞれ明確に料金設定がなされている。その料金設定は、WEB上ですべて確認できるので、「これを頼んだらいくらかかるんだろう」という不明瞭な所がまったくない。今まで会計事務所を利用したことのない人でも、最初から安心して頼めるのも大きな特長と言えるだろう。

「できればまた、飲食店の経営をしてみたい」

 「ビルオーナーや中小企業の皆さんの発展に役立ちたい」との思いから生まれたAOC(アットオフィスコンサルティング)は、2005年1月、谷氏を代表取締役として、本格稼働を開始している。

「とりあえず今は、AOCの運営と発展が急務。グラントコーポレーションの創業時に負けないほどのハードスケジュールですが、それだけにファイトが湧いてきます」

 今年40歳になる谷氏は、目を輝かせる。
第三者の目から見ると、不動産仲介業をメインに、会計・WEB・テレマーケティングを複合したAOCは、前例がないだけに挑戦的で、試行錯誤が多い印象を受ける。しかし谷氏にとっては、その状況こそが原動力になるらしい。

 AOCは、社員ひとりひとりの夢を叶える礎となる会社。その理論は、社長の谷氏にも当てはまる。では、谷氏は将来に、どんな夢を描いているのであろうか。

「私の夢は、実は再び飲食店を開くことなんです。できれば全国展開するぐらいに成長させたいですね」

 AOCを立ち上げたばかりで激務をこなしながらも、さらに将来の夢を語る谷氏。常に夢を見ながらバイタリティに溢れた活躍をするその姿こそ、社員やクライアントを魅了してやまない谷氏の魅力なのである。

 

 

←戻る